東京・尾山台の閑静な住宅街、マンションの3階に週末にだけ開くミートパイの専門店があります。マンションのバルコニーに建てた小さなお店には、オーストラリアの国民食といえる牛肉のミンチを使ったミートパイのほか、ビーフステーキパイやラム(仔羊)、ポークといった珍しいパイに、アップルパイや焼き菓子なども並んでいます。
「いらっしゃいませ」と流ちょうな日本語で迎えてくれるのは、オーストラリア出身のキフ・セイントさんです。都内の高校で英語教師をしていたキフさんは、退職後2017年に「PUNK DOILY(パンク・ドイリー)」をオープン。自家製のパイや焼き菓子を週末を中心に販売しています。
サクサクの軽やかな生地のなかには、ビーフがたっぷり詰まっています。「おいしいミートパイをつくる秘訣は、おいしいビーフを使うこと」というキフさんは、オーストラリア産牛肉のなかでも、高級レストランで使うような高品質なグラスフェッドビーフ(放牧飼育牛)やグレインフェッドビーフ(穀物肥育牛)などを惜しみなく使います。
本物のミートパイをつくるには素晴らしい牛肉が必要
ミートパイは、炒めたひき肉とタマネギを煮込んだ具材を、バターをたっぷり使ったパイ生地で包んだ料理で、オーストラリアにはイギリスから伝わったとされています。オーストラリアでは、ガソリンスタンドやコンビニエンスストアでも購入できるほど身近な存在で、友人や職場の同僚たちとパブなどで飲む際にも食べるように、小腹を空かせたときの軽食や食事にもなる国民食です。
日本でもオーストラリアスタイルのカフェなどで見かけるようになり、少しずつ知られてきましたが、まだまだ馴染みの浅い食べ物です。しかし、PUNK DOILYが朝11時に開店すると、途切れることなく客がやってきては、ミートパイを持ちかえったり、屋上のテラスで食べていきます。客層は、周辺に住むオーストラリア人はもちろん、日本人も多く、地元に根付いた人気のミートパイ専門店といった雰囲気です。その人気を支えるのは、手づくりにこだわったミートパイです。
キフ・セイントさん(以下、キフ)「ミートパイにとって重要なのは、中の詰め物で、肉がたっぷり入っていることです。それは、ほとんどのオーストラリア人が同じように感じることだと思いますが、グレービー(肉の汁)のソースばかりが多いミートパイを食べるのが何よりも嫌いだからです。グレイビーパイではなく、肉を食べていると感じる、リアルミートパイであることが重要です」
「リアルミートパイであるためには、素晴らしい肉からはじめること」と続けるキフさん。故郷だからと贔屓するつもりはないといいながらも、脂の多い日本の和牛よりも、赤身主体でうま味が強いオーストラリア産牛肉が適しているといいます。
レストランクオリティの牛肉をあえて使って“本物”に
PUNK DOILYの最新作は、オーストラリア・タスマニア島で完全放牧・ノンケミカルで育ったケープグリム社のパスチャーフェッドビーフのブリスケット(肩バラ)を使ったパイです。
パスチャーフェッドビーフとは、牧草飼育牛であるグラスフェッドビーフのなかでも、放牧地に栄養価の高いクローバーなどのマメ科の草を育て、飼料となる牧草の栄養価を管理することで、肉質の良い牛肉に仕上げたもの。なかでもケープグリム社のパスチャーフェッドビーフは、都内のレストランでも使われる高級食材です。ほかのパイでは、同じようにレストランで愛用された、グレインフェッドビーフのブランド、ジョン・ディ社の牛肉を使っています。
オーストラリアではミートパイといってもさまざまあり、たとえば安く提供するために安価なミンチ肉が使われることがあります。そのため、何が入っているかわからないという意味で「ミステリーバッグ」と揶揄されることもあるほど。
キフさんが目指すのは、家庭料理や地域に根差した専門店のミートパイです。材料からこだわって手づくりし、肉がたっぷり詰まったミートパイが“本物”だといいます。レストランクオリティの牛肉をあえて使うのは、ミートパイという料理が良い食材から始まる料理であることを伝えることでもあるといいます。
キフ 「しかし、高級食材を使っているからといって、高級なお皿に盛って提供する必要はありません。そもそも、オーストラリアでは手でもってかぶりつくような料理です。こんなに素晴らしいパイをカジュアルに食べることができるのがオーストラリアの国民性であり文化ですから、そういったことも伝わればいいですね」
遠く離れた日本でミートパイとの悲しい出会い
30代前半で京都にいた兄弟に会うため初めて日本を訪れたキフさんは、滞在中に京都の美しさに魅了され、再来日を決意。大学の学位を取得後、39歳ごろに日本に移住します。
憧れだった日本での暮らしをはじめて数年、今から10年ほど前に、オーストラリア大使館を訪れる機会がありました。そこでキフさんは、故郷の懐かしい料理であるミートパイを食べる機会を得ました。
キフ 「数年ぶりに、オーストラリア人がつくるミートパイを食べられるのが楽しみだったんです。それに大使館には素晴らしいキッチンがあるので、自家製のミートパイがでると思っていましたが、そうではありませんでした。私の人生でこれほど失望したことはありません。さらに、それをオーストラリアの国民食として紹介することに恥ずかしさすら感じたくらいです」
残念な思いとともに、オーストラリアの国民食として誇れるミートパイを食べてもらえる場所が日本に必要なのではないかとキフさんは感じ、ミートパイ専門店をつくろうと考えはじめます。そして都内の私立高校で英語教師をしながら、現在もともにパイづくりを行う妻とともに本やインターネットを通じて独学でパイづくりを学びます。まずはじめたのは生地作りでした。
キフ 「しかし、パンと同じように安定してパイ生地をつくるのは、とても難しかったです。というのもミートパイには、具材と同じくらいサクサクしたおいしい生地が必要だからです。そして生地も具材とおなじように良い食材を使うことが大事で、現在はニュージーランド産のグラスフェッドバターのほか、牛脂を使うことでサクサクとした食感になるようにしています」
2年ほど休日を利用して独学で料理を学んだのち、高校の英語教師の契約が終わるのを機に、いよいよミートパイ専門店を開店させるための本格的な準備に入ります。場所は、自宅マンションのバルコニー。マンションの大家に、断られることを承知で店を建てられないかと相談したところ、驚いたことに大家から同意を得られたのです。
キフ 「さらに驚いたのは、役所からも製造の許可が得られたことでした。これはオーストラリアでは不可能なことだったと思います」
食べ物は文化の一部。ミートパイが文化を伝える
現在、PUNK DOILYは、土曜と日曜の週末と、月に2回金曜に営業するのみです。火曜から木曜は、営業の準備と仕込み。製造から販売まで、すべてキフさん夫妻が行っているため、今以上に営業日と製造数を増やすことは難しいといいます。
たとえば65個のミートパイを作るのに、具材には6.5kgの牛肉と1ℓの自家製ストック(出汁)、1kgのフライドオニオンが必要で、さらにじっくり時間をかけて具材を完成させます。くわえて最高級のニュージーランド産バターを使用したパイ生地は、つくるのに2日もかかるといいます。
キフ 「出来あいの材料で効率よくつくって、価格を安くする方法もありますが、私が目指しているのはリアルミートパイ。調理自体に手間はかけずに時間をかけてつくるのが、本物の姿だと思うのです。そのため、ミートパイ1個の価格が900円しますが、私たちのミートパイにどれだけの時間とコストが費やされているかを知ってもらえれば、すぐれた価値があることを感じてもらえると思っています」
“本物のミートパイ”を日本に知ってもらいたいという思いは、少しずつ伝わってきています。オーストラリアではわざわざ外出の目的になることはないミートパイが、PUNK DOILYのミートパイを求めて、わざわざ訪れる客も多いと、キフさんはいいます。さらに週末のデートでおしゃれしてくる人たちも多く、屋上のテラスで食べるのを楽しみにやってくるといいます。
キフ 「オーストラリアでは、ミートパイを食べるために着飾って出かけることなんてありません。コンビニのおにぎりのようなものですから。手づくりにこだわったプレミアムなミートパイとしてメディアやSNSで紹介してくれることもあって、日本ではおしゃれでファッショナブルな新しいフードとして受けとめられているのは興味深いですね」
「食べ物は文化の一部です」とキフさん。刺身とともに日本酒を楽しむことが日本の文化であるように、パイを食べながらビールを楽しむのはオーストラリアの文化であり、文化は人々を結びつけるためにも、共有するべきだといいます。
キフ 「人類は、何千年もの間そうして文明を築いてきました。私のミートパイも、オーストラリアと日本の架け橋になってほしいと思っています」