レンガ造りのレトロな駅舎風情が印象的な東京駅丸の内口の正面に建つ新丸の内ビルディングは、エリアを代表するランドマークビルです。その6階にある「ワトルトーキョー(Wattle Tokyo)」は、前身で2007年にオープンした「ソルト バイ ルークマンガン(Salt by Luke Mangan)」も含めて16年間、自由でエモーショナルな料理でゲストを魅了し続けるモダン・オーストラリア料理の名店です。
店名のワトルは、オーストラリアの国花である「ゴールデン・ワトル」からとられているように、オーストラリアの食や文化を伝えるレストランのシェフである鈴木勇一さんは、料理を通じて「なにものにもとらわれない自由さを伝えたい」といい、そのなかでもオーストラリア産牛肉は「モダン・オーストラリア料理の象徴的な食材」だといいます。
「おいしいものを食べようぜ!」がフレンチとの違い
酒粕とポルト酒、フォン・ド・ヴォー(牛の出汁)でつくったソースの上には、米ナスのグリルに、オーストラリア産ロンググレインフェッドビーフ(長期穀物肥育牛)の肩ロースのステーキが重なり、グリルした甘長トウガラシで覆うように被せてあります。肉の端にのせてあるのは、スモークしたいぶりがっこのバターです。
酒粕やいぶりがっこといった日本の食材をソースや付けあわせに大胆に使うほか、素材そのものの形を残したオーストラリア産牛肉や米ナス、甘長トウガラシが大胆に盛りつけられています。
「オーストラリアを代表する食材であるオージー・ビーフに、日本の文化を感じさせる食材を合わせた、モダン・オーストラリア料理らしいひと品だと思います」と話すのは、日本におけるモダン・オーストラリア料理のパイオニアといえるレストラン「ワトルトーキョー」のシェフ、鈴木勇一さんです。
美しい盛りつけから見た目はフランス料理のようですし、じっさい鈴木さん自身も以前はフランス料理の料理人として仕事をしており、料理の基礎にあるのはフレンチの技法です。それでも「モダン・オーストラリア料理」と胸を張って料理を出すことができるのは、国ごとの歴史や調理技法、食材の組み合わせにとらわれず、「おいしいものを食べようぜ!」というハッピーでおおらかなオーストラリア特有の気質が料理で表現できているからだといいます。
ワトルトーキョーのシェフとして6年、今でこそモダン・オーストラリア料理とは何かを料理で表現できるようになった鈴木さんですが、シェフになりたてのころは、違いがわからず苦労しました。じっさい常連のゲストに「フランス料理を食べにきたわけじゃないんだよ」といわれたこともあります。
鈴木勇一さん(以下、鈴木)「続けて『つまらない』とお客様はおっしゃられたんです。そのときにハッと気づくわけですが、自分のなかにあるフランス料理の伝統的な型、たとえば何々風というようなものに無意識のうちにあてはまってしまっていたんです。でもモダン・オーストラリア料理はそうではなく、僕自身がこんな食材の組み合わせや調理をしたらおいしくなると考えたことが反映された料理である必要があったのです」
常連のゲストの温かい助言をもとに鈴木さんは、モダン・オーストラリア料理の真髄を少しずつ消化していきながら、自由に料理することを身につけていきました。
オージー・ビーフはつねにおいしい、なくてはならない存在
「創作料理ではないモダン・オーストラリア料理であるためには、個性が強いオーストラリアの食材をしっかり使っていくことが必要だと思います」と鈴木さんは、もうひとつモダン・オーストラリア料理であるためのポイントを挙げます。
食の安全意識が高いオーストラリア産の食品のなかでも牛肉は、厳格な品質保証制度や、徹底したトレーサビリティ・システム、確かな格付制度などの取り組みが反映された、農業大国オーストラリアを代表する食材です。そのなかでも鈴木さんは、安定した品質に絶大な信頼をおいています。
鈴木 「国産や他国産の牛肉を試すこともありますが、たまに真空包装された状態で見ても肉の色が悪く、本来のクオリティより格段に低い状態のものを見ることがあります。ですが、オージー・ビーフではそういったことは、ほぼない。産地での処理と流通、どちらも管理が行きとどいているんだと思います。つねに安定していて、つねにおいしい。もう僕には、なくてはならない存在になっています」
オーストラリアの食材では、牛肉のほかにもできるだけ新しく日本に入ってくる食材を使うようにしていると鈴木さんはいいます。最近、新しく出会ったオーストラリアの食材に、世界最大級の大型の淡水魚の「マレーコッド」があります。オーストラリア大使館からの紹介をうけてすぐに使ってみたという鈴木さんは、日本では高級魚として知られる大型魚「クエ」のような身質だったといいます。
「コロナ禍で輸入が中断されて現在は使用していませんが、再開されたら必ず使いたいです」と鈴木さん。こうしたオーストラリアにしかない食材だからこそ、希少性を理解して食べてもらうことが必要だといいます。
鈴木 「モダン・オーストラリア料理は『自由であること』とよくいわれるのですが、それだけですとジャンルがなくなり、お客様も混乱してしまいます。オーストラリア産の食材であることを知っていただくために、たとえばマレーコッドのときには『オーストラリアのレストランでないと食べられません』ということや、『うま味の強い白身の魚で、クエのような味です』というようなプレゼンテーションを私たちからしなければいけません」
「おもしろい」と誘われて挑戦したモダン・オーストラリア料理
オーストラリア料理といえば、「豪快なバーベキュー料理」や「大皿山盛りのシーフード」を思いうかべ、繊細な現代料理を想像する人は少ないかもしれません。しかし近年オーストラリアは、世界が注目する「食の新大陸」として知られるようになっています。
ひとつのきっかけといわれているのが、2015年に世界最高のレストラン「noma」がシドニーで期間限定レストランを開いたことでした。オーストラリア固有の食材などを求めて世界ナンバーワンのレストランがやってきたことで、世界の注目を集めただけでなくオーストラリア国内でも自国の食材に目が向けられ、「モダン・オーストラリア料理」と呼べるレストランが多数現れます。
日本にも、オーストラリアスタイルのレストランが多数上陸しはじめたのもこの頃からで、オーストラリアの食の魅力を日本でも体験できるようになりました。
東京・丸の内にある「ワトルトーキョー」は、モダン・オーストラリア料理が世界的に注目される以前、2007年にオープンしました。当時は、オーストラリアのスターシェフ、ルーク・マンガン氏が料理を監修しており、店名も「ソルト バイ ルークマンガン」でした。
「オープンから2年目の2009年に入店しましたけど、モダン・オーストラリア料理がいったい何なのかわからなかったです」と鈴木さんは入店当時を振りかえります。調理師専門学校を卒業後、フランス料理店で研鑽をつんできた鈴木さんにとって、未知の世界に飛びこむ気持ちだったといいます。
鈴木 「最初に働いたホテルの先輩が、後に『ソルト バイ ルークマンガン』でシェフになる弊社の料理人、齋藤拓也で、彼に誘われたのがきっかけなんです。『とにかくおもしろい』と話していたのが気になって入ってみたら、確かにおもしろかったんです」
とくに印象的だったのは、それまで働いてきた店は、加工済みの商品を使うような場面でも、おいしくするためなら素材から手作りしてつくる料理人の姿勢でした。ほかにもオン・オフをしっかりつけた働き方など、それまで経験した日本のレストランにはないものばかりで、鈴木さんはオーストラリアスタイルの「おもしろさ」にすぐに感化されると、以来、オーストラリア料理をつくり続けています。
鈴木 「シェフになる直前に、オーストラリアに視察に行ったんです。現地のレストランが主な視察先でしたが、ただ街を歩いていても、すれ違う人たちがみんな笑顔で歩いているんですよ、すごい国だなと思いました。そのときに、料理の自由さや、おいしくしようぜというオーストラリアの料理人たちの感覚をすごくよく理解できたような気がします」
どこよりも進んだオージー・ビーフの安全性と動物福祉への意識
コロナ禍になる直前の2019年に鈴木さんは、未来の食糧危機について知り、食に携わる料理人として、何かできることはないかと考えるようになりました。
鈴木 「子どもたちに今までと同じように楽しく食事をしてもらいたいと思ったんです。さらに大好きな飲食業を残すために何か貢献したいと考えたときに、飲食業やそこで働く人たちがサスティナブルであることが必須であることも分かり、それならば多くの方に知ってもらうためにSNSを中心に発信を始めました」
もともとオーストラリアの食材自体がSDGsに配慮したものが多かったのも、鈴木さんの発信を促したともいえます。もちろんSDGsに関することだけではなく、日々のおいしい料理などを交えながら発信を続け、2023年7月現在、Instagramのフォロワーは1,1万、Twitterは3,200にまでなりました。
鈴木 「オージー・ビーフは安心・安全、アニマルウェルフェア(動物福祉)のことなど、どの国よりも進んでいて、最初にお話しした通り、オーストラリアの国を象徴する価値のある食材だと思います。スーパーに並んでいるのを見ても、明らかに肉の色が他と違うから、品質の良さは分かってもらえると思いますよ。そういった当たり前のことをしっかりとお伝えしていくことが、大事なのではないかと思っています」
世界の人々の往来がコロナ禍以前に戻りつつある今、ふたたびオーストラリアを訪ねたいと鈴木さん。牛肉だけでなく、ラム(仔羊)肉やシーフード、ハチミツ、オリーブオイルなどクオリティと安全性が高い食材が多いタスマニアや、シドニーとともにオーストラリアの流行の最先端であるメルボルンで刺激を受けてきたいといいます。
「オーストラリアにしかない食材との新しい出会いをしたい」と鈴木さんは、モダン・オーストラリア料理の自由さを、まだまだ楽しんでいるのです。